NO 7              社会への目覚め その二                           

 以下も学校での作文(中学か高校です)

      ある日

 いつの日だったか、夜の9時頃だった。何気なく通りかかったところのテレビに、意外なことをみた。見出しは覚えていないがなんでも岸首相の反省を求めて、ある禅修行者が自殺したのだそうだ。私は興味を以て暫く見ていたのだが、その時は別に何とも感じなかった。他の人が思ったと同様、馬鹿な人だと思ったぐらい。
 だがそのちょっとした事件を私は翌日まで忘れることが出来なかった。私は新聞に何か載っているだろうと思って捜した。だがそれらしい事件は何もなかった。私はある冷たいものを感じた。何故新聞に載らなかったのか、少なくとも首相が原因の事件なのだ。当然何か載るべきではないか。
 私は人にそのことを聞いてみたかった。しかしその前に、私は自分の記憶が異常なのではないかと思った。すると昨夜のニュースは一体何だったのか。私のほかに母も聞いていたはずではないか。
 そして私は思った。世間ではああしたことは吹聴しないのだと。そこに私は矛盾と虚偽を見るのだ。映画とか週刊誌の広告は載せても、ああした事件は載せない。それは何故なのか。
 もちろん私は自殺した人に同情し、その行為が無になったことを嘆こうとは思わない。ああした行動はむしろ考慮の余地がある。死ぬ気なら、生きて闘うことが人生なのだから。しかし私は思う。何故ああしなければならなかったのかと。そこに何かがあるはずだ。それを追求することは不正であろうか。
 ところが世間では考えることを避ける。あんな事件はなかったような顔つきでいる。何も言おうとしない。沈黙。それが正しい時もあるだろう。だがそれなら、何故もっと俗悪的なものへ沈黙しないのか。
 私はその日、ひどく絶望的に物事を考えた。しかし今思うとあの事件はなかったことなのかもしれない。それだから人々は何も言わなかったのかもしれない。だがあれが記憶でなかったら何なのだろう。
 ある日彼女は夢を見た。ということになるか。それは現実社会の予言であったとでもいおうか。誠に愉快な思い出である。

当時の先生の評に赤ペンで「社会批評の一つの見方として面白い。こういう分は歓迎されるかもしれない。文も気が利いている。及第。最後は何を言おうとしたのか。もっとくわしいほうがよい」とある。確かに先生は良く見ている。
 最近の(H24.1)の社会を見るとこの最後のフレーズは国民の小さな声は聞かない政治家たち、あるいはマスコミを言おうとしていたのかもしれない。愉快な思い出だけでは済まされない、いつの世にもある事象に思える。知らせてほしいことは知らせられず、どうでもよいことはいっぱい放送されるテレビ番組の画一化は気になるところ。何のための報道かメディアリテラシーを高めたいもの。

 






                  














 

   



















 NO 6  中学校時代  社会への目覚め

 中学校は中高一貫教育の私立の女学院であった。ガーネット色のネクタイと金線のセーラー服は結構上等なものであった。お嬢様学校と言われていただけあって、経済状態がよい家庭の子が多かったように思う。その中で、生粋の庶民である私は違和感を禁じえなかったのだが、それでも屈託なく友達はできた。結構アバウトな性格だったように思うが、当時の作文を見ると、女子にしては社会への見方も今と同じくらい確かな感じがする。
 当時の作文をここに載せてみよう。その方が当時の感覚が分かるというもの。言葉の稚拙や勘違いの所もあるが 勘弁していただこう。うん十年前の中学時代の少女のたわごとであるから。
                                 (2009.5.28記)







 

国際社会と日本

 

 日本の今の立場を言うと「姑のいる結婚生活」のようだ。つまり独立してはいても、ソ連、アメリカという姑がなにやかやと干渉する。しかもそれに反感を抱きながら、日本という結婚生活は、彼らの言うことを聞くだけで、離婚も反抗もできない。封建的ともいえるこの今の日本は、いわば半植民地的存在なのだ。

 しかしその日本も今年は国際連合という新しい舞台に上がった。世界80余国の集まりであるこの国連に加盟でき、新しい世界に入ったことは、日本のためにも、他国のためにも利益になることに違いない。しかしその国連は無力で、スエズ問題、ハンガリア問題に解決を与えていない。

 われわれは常に世界平和ということを考える。

 ある新聞に「日本の茶の間、世界の茶の間」という題で「世界政府というのはあまりに理想主義であり、国連による平和維持に期待するのが現実的な結論では」とあった。がそのあとに賀川豊彦が「国連自身がその無力さに気づき、各国共この強化をはかりたいとしており、我々の提唱している世界連邦の思想が反映するものと期待している。これが実現すれば世界中の軍事費が何分の一かに少なくされ、文明の進歩はおおいに望まれる」とあった。しかし人間というものを見たとき、私はその世界政府がいかに困難なことであるか、思わずにはいられない。

 たとえばスエズ問題などは自国の利益を目的としての争いである。エジプトのナセル大統領が、スエズ運河の国有化を宣言し、また英会社のエジプト化を宣言したということは実にきびきびしていてよい。しかし彼の行為はソ連の援助での人気取りのように思える。

 またアメリカのアイゼンハワー大統領にしても自国のいいように中東問題を解決しようとしている。中国と友好条約を結んだソ連も条約の内容の素晴らしさに比べ、ハンガリア問題などを見ると、やはり矛盾に思える。 

 このような中において日本が国際社会と交わるのは極めて難しい。しかし、それは決して理想ではないのだ。国連という機関を通し、世界平和への道を踏むことができるのだ。

 われわれはもっと深く政治を考え、自分の意見を持ち、より良い政治家を国会へ送り、世界へ送り、本当の民主的国家を、本当の独立国家を作るために、個人個人が努力し、協力しなければならないのである。

 それらのことにより、日本はいわゆる「良い国」になり、世界平和への道もまた容易となるだろう。(中学3年時)


NO5     小学校時代  その2  高木先生

 昭和23年(1948年)品川区立第三日野小学校へ入学した私。当時の写真を見ると木造の校舎を背に66名の児童がそれぞれの恰好で胸に名札を付けている。太陽がまぶしいのか皆しかめっ面だ。上段の真ん中におじさん風の校長先生と両端には若い女性の吉田先生と沼田先生。これでひとクラスだったのだろうか。私は上段の左端でどこか遠くを見ている。ふっくらとした顔におかっぱ頭、白っぽい上着を着ている。他の児童も一様にふっくらとしていて、これが戦後間もない入学式とは思えないほど豊かそうだ。最もよく見るとセーターやスモック姿が多く、きちんとした服装は少ない。しかも緊張しているとはいえ誰一人笑っていないのだからやっぱり一時代を反映している写真には違いない。

 そんな中での小学校時代は多くの先生方に世話になった。低学年での吉田先生(女性)は放課後の掃除のとき「一番いやなことをする人が一番偉いんだよ」と言っていた。ずいぶん長いこと私はその言葉を信じて、いやなこともやって来られたような気がする。青木先生(女性)は私が級長になって授業始に「起立」「礼」「着席」というのがいやで級長を辞めたいといった時、(何しろおとなしい子だったので)「声は小さいけど、よく通る声なんだからやってみなさい」と諭してくれた。おかげで何とか級長を務めることができ、その後には積極性が出てきたように思うからやっぱり先生の指導は正しい。
 そんな女の先生の中に、4年頃から若い男性の三好先生や長野先生が現れた。理科や体操を教えてもらったのだが、今でいうスパルタ教育で、男子は何かとビンタを食らったりしていた。女の子にはビンタはなかったが、とても怖い先生だった。それでも放課後演劇の練習などで、ふざけて遊んだりした。そのせいか、卒業後はそんな厳しい先生が人気があり、私たちのクラス会ではいつも呼んでは昔の話に花を咲かせた。

 中でも高木先生は私にとっては忘れられない恩師である。いや6年2組のみんなにとっても一番の恩師であるに違ない。6年になって急に新任の高木先生に変わったのである。このわずか1年の出会いが後に長く続く関係になろうとは誰が思っただろうか。

 高木先生は真面目な方で、初めての担任でもあり、とても一生懸命だった。私たちとは15ぐらいしか違わないせいか友達のような感覚があったのかもしれない。
 いつだったか休みのとき、先生は私たち女の子数人を映画へ連れて行ってくれた。当時は東映の時代劇が全盛のころで、確か片岡知恵蔵の遠山の金さんを見たように思う。私の好きな千原しのぶという綺麗な女優さんが出ていた。今思うとその女優のあの色っぽさが分かっていたのかと考えてしまうのだが、子供なりに何かの思いがあったのだろう。その日、高木先生は帰りにラーメン屋さんで五目そばを奢ってくれた。当時は大変な御馳走で私はとてもおいしく頂いたのを覚えている。そんな気さくな先生だったので皆先生の言うことはよく聞いた。無論後年のクラス会の常連でもある。先生は必ず出席された。

 個人的には私が中学受験をするので何かとお世話になった。受験した日、先生は我が家に来られて、その日の受験問題を手にしていた。私が問われるままに答えを言うと「大丈夫だ。受かっているよ」といってくれた。何も分からず唯夢中で勉強して受験していた私である。4〜5倍の倍率も気にすることなく受けられ、合格したのも先生の教えの賜物であろう。最も母の教育熱心な姿勢もあったようだが、今にしてみれば名の通った学校に受験させてくれた先生と母にに感謝のみである。当時からお嬢様学校だったので、いわゆる庶民の私たちには似合わない選択であったからだ。
 公私ともにお世話になったこのわずか1年足らずの時間は、私たちに時間の長さではない密なる師弟関係をもたらしたのだ。

 その後、先生は吉田先生と結婚され、私たちは新居へ遊びに行ったりした。先生の家の庭で撮ったセピア色の写真は昭和29年3月となっているから、小学校卒業の頃のものらしい。当時の親友のTやYと微笑んでいる私がいる。たぶん先生が撮ったのだろう。
 また先生は後に、「五体不満足」で有名になった乙武洋匡さんの小学校時代の先生でもあった。本の中で、高木先生と出てくるのは私たちの恩師である高木先生である。後に先生は小さな冊子を出されて、その中で乙武さんの将来を考えて、あえて甘やかさなかったといっている。先生の厳しいながらも教育者としてのあるべき姿勢には頭が下がる。謙虚で自然体の先生の教えは普遍的な愛に満ちていたのだ。

 一昨年、80歳の誕生会をクラスのものでお祝いした翌年、11月30日に最後となったクラス会の後、帰らぬ人となった。最後のお便りとなったその年の暑中見舞いの返事には「私、今心がけていることは動くことです。世のため人のために、今でも私にできることは何かを考えて動いています」とある。そしてその言葉を裏打ちするように、その年の12月31日に庭を掃き清め、お風呂に入り、年越し蕎麦を食べて、いつものようにお休みになり、そのまま永遠の眠りについたそうだ。「すべてやることをやって逝ったのよね」と葬儀の席で同級生のTが言っていた。


 昨年のお彼岸に友人のKと先生の菩提寺へお墓参りに行った。六本木ヒルズが墓地から見える一等地のそのお寺は賢宗寺といい、鍋島藩の家来たちの菩提寺という。この由緒あるお寺にふさわしく、まっ白いモクレンがつつましく咲き、ここが都会のど真ん中とは思えない静けさに包まれていた。高いビルとその墓標の対比に私は言いしれぬ悲しみを感じたのだった。こうして高木先生も時間の彼方、歴史の中に入ってしまった。そしていつか私もあの世とやらで先生に会えるのかもしれない。その日まで、やり残したことはあまりにも多い。私が人生で躓いたとき、選挙で落選した時、いつも励ましの言葉を送ってくれた恩師の不在は私に途方もない宿題を与えているようで、今その言葉の一つ一つをかみしめるこの頃である。(2009.5.1)


NO4    小学校時代   その1  父と母の記憶

  小学校時代の私は父親っ子で、いつも父に甘えていた。どこへ行くにも連れて行ってもらっていたように思う。それというのもとてもおとなしい子で、「カズはいつも、いるかいないか分からないね」といわれ続けていたので、たぶんどこへ連れて行っても邪魔にはならなかったのだろう。仕立てた洋服を届けたり、集金に行ったりという時にはどうもついて行ったらしい。そんな父は弟たちにはげんこつを飛ばして怒っていたようだが、女の私は一度も怒られた覚えはない。父にとっては初めての子でもあり、すぐ下に弟ができたので、母はその面倒に関わっていたということもあって、自然父親が私を見ていることにもなったのかもしれない。ともかく可愛がられた記憶ばかりである。
  そんな父ではあったが、いつのころからか夫婦喧嘩が多くなり、仲が良いと思えたのは父が母の機嫌をとるために、銭湯の帰りに飲み屋へ寄ったり、目黒の権之助坂の商店街でネックレスを買ったりしてあげていたからだった。今でもその時買ったオニキスのようなキラキラとした黒いネックレスとベージュ色のガラス玉のような長いネックレス、そして空色がきれいな勾玉のようなネックレスは私のジュエリー箱の奥に母の形見として存在している。そのころのアクセサリーとしてはとても素敵なものであったことは、その後母が長く愛用していたことからもうかがえる。今でも立派に通用する素敵なネックレスである。
 しかしながら子供の私は、その両親の危なげな関係を察していたのかもしれない。両親が離婚したのはそれからずっと後のことであったが、そのころのさびしい思いを私は後に雑誌社に投稿し、入選一席に選ばれ、賞金千円をもらっている。当時の記憶に近いのでここにその全文を載せる。


           たわいない話      
もう十年以上も前のことだろう。私は小学生。父と二人で海へ行ったことがあった。それはどこの海岸であったか、初めて海を見る私には、はっきりした記憶はない。ただ秋であったのを感じる。
 静かな、そして深い、緑色の海であった。少し涼しすぎる風が、私と私の手を取ってくれた父の手との間を戯れ過ぎて、生まれて初めて私はすがすがしさというものを味わったような気がしていた。
 私たちは砂浜に腰を下ろしたと思う。それがなぜかわびしく感じられてならなかったのは、父母の間がうまくいっていなかったためだろうか。
 それは、はっきりした記憶ではないけれども、子ども心に私はそんな空気を感じていた。そしてそんな中で、私は一種、おびえたような孤独感とうつろで曖昧な気持ちとで、父と手をつないでいた。
 それからたぶん、私たちはお弁当を食べたのだ。おにぎりだったろうか。アンパンだったろうか。いや、そんなことよりも、私はりんごのことを覚えているのだ。
 まっかな、つやつやしたりんごが、ころころと海へ飛び込むように、転がりだしたのを覚えているのだ。
 私があっと叫ぶよりも早く、父はりんごを追いかけていた。ところが私には、その父がまるで海へ向かって走り込むような気がしたのだ。
 だから、父が無事にりんごを拾いあげた時、私は思わず「おとうちゃん」と父の手にしがみついていた。
 父はなぜ私がそんなふうにしたかも聞こうとしないで、ただ笑っていた。そして私を、赤ん坊のように、空高く上げてくれた。それがまたこわくて、私は前よりもいっそう強く、父にしがみついたのだった。
 それはほんとうに、遠い日の思い出である。今であるなら、そんなことがあっても別に心配はしないだろう。
 あの時、私はまだ真に、生というものがわかっていなかったのだろう。父が本当に海へ転がり落ちていくような、そして父を失うことによって、自分も失ってしまうような、そんな気がしていたからだろう。
 たわいない話である。
 
なみに中村真一郎氏の評はこうである。「情景がよく描けています。情景と現在との時間的距離が、文章をうまく統一しています。最後の一句が、よくきいています。」

 母がネックレスをしているところは記憶にない。けれどもその時代を生きた輝きは残されたネックレスの中にあるような気がして、私はそれを手放すことができない。
 小学校に入りたての頃、私を送って帰る母の姿をいつまでも教室の中からみていた少女も、今は母の人生と同じ様なその年齢を歩んでいる。年々母を思う気持ちが蘇るこの頃である。(09。3.23記)



NO3    幼児期
 
 焼け野原となった東京には空き地が多くあった。その空き地に親戚と隣り合わせでトタン屋根のいわゆるバラックといわれるような家で、私たちは育った。今のように豊かではなかったが、皆がそうであったせいか、私たち近所の子供たちは元気だった。時折やってくる進駐軍のアメリカ兵にチョコレートやチューインガムをもらっては喜んでいたものだ。
 ある日、いとこで8歳年上の幸子さんが、裏の畑にある得体のしれない木の箱が何なのか見に行こうと言って、男の子たちに持ってくるように言っていた。女だてらにガキ大将だった幸子さんの言うことは皆聞かないわけにはいかない。サツマイモ畑の蔓をかき分けてはしぶしぶみかん箱大の箱を持ってきた。私はまだ学校へ上がる前だったと思うが、その幸子さんの物おじしない態度に、頼もしさを感じていたものだ。
 幸子さんの命令で釘打ちされていた箱の一部が剥がされると、中からは干からびた犬の死体が飛び出してきた。
さすがの幸子さんも「ひゃー」と言ってのけぞった。私はちらっと見ただけで足がすくんだ。多分何かの死体を見るのはそれが初めてであったのだ。私たちはきゃあきゃあ言いながら元の場所において逃げ帰ったのだった。
 近くにお稲荷さんの敷地があり、壊れかけた天水桶や鳥居があり、雑草が生い茂った様は幽霊が出そうな界隈であったので、そのあとしばらく、私は夜が怖く寝付けなかったものだ。後に私たちが近くの土地に家を建てたのでその地を引き払ったあと、そのお稲荷さんあとには奈良光枝という歌手が家を建てた。当時は有名な美人女性歌手だったので、ちょっと話題になったものだ。

 また、鮮明な記憶としては、2歳下の弟がクリームの瓶のかけらを踏み、そのかけらを取り出すのに、病院へ行ったことである。泣き叫ぶ弟を母はおんぶしていて、医者は背中の弟の足にメスを入れてかけらを取り出していた。母に連れられて行ったのだろう。私はその弟の泣き叫ぶ声にいたたまれなかった。以来クリームの瓶を見るたび、思い出す。そして陶器や瓶のかけらにはことさら気をつけるようになった。
  一番下の弟が生まれたときのことも思い出す。自宅出産が普通であった時代。お産婆さんが来て右往左往する様。8歳違いとなる弟の誕生だった。私はその弟をよくおんぶして子守したものだ。泣き虫で、マザコンの弟は一番の母思いでもあった。後にレストランを経営していたが、バブル経済の犠牲となった。私より先に逝ってしまった。
 そしてあの元気な幸子さん、後にアメリカ人と結婚し、長くアメリカに滞在していたが、数年前離婚し、我が家を訪れたきり、音沙汰がない。彼女の両親は勿論、実弟もなくなった今、帰る場所がなくなってしまったのだろうか。時の流れは時に残酷だ。
 
 今、手元に近所の村井道子さんと撮った一枚の写真がある。お正月なのだろう。二人とも七五三の時のように着飾っている。バックにはお稲荷さんの鳥居が、その後ろにはバラックの家がある。白黒写真だが私にはその着物が京染めのピンク地に菊の小花模様であるのが分かる。母の着物を染め直したものだと後に聞いていたからだ。そして大人になるまで、お正月のたびに私は袖を通していたものだ。短い髪の毛に二つもリボンをしてふっくら顔の私はちょっと微笑んでいる。道子さんはちゃんと笑っているのに。あの時の道子さんはどうしているのだろうか。
 戦後の物資のない中で、これだけ着飾ってくれた両親に、今は感謝の一言である。(2009.2.12)

 



NO2      戦争の記憶
  
 1945年3月、東京空爆の時、私はたったの3歳。だから覚えているわけはないのだが、今だに記憶の中から離れない光景がある。それは母親の背中におんぶしてもらって、川のほとりに逃げたこと。あれはたぶん、目黒川のほとりであったと思われる。
 1歳の弟が母の妹である叔母におんぶされ、私は母の背中にいたのだ。そのことがかくも長きにわたって記憶に留まるのは、子供心にただならぬ気配を感じていたからに違いない。あるいは後に、母が幾度も語ったことにより、それがあたかも見たかのように記憶されたからなのかもしれない。今となっては、そのどちらでもあるように思えるのだが。
 ただ、はっきりと覚えていることがある。高台の家から坂を下る母の足元には編上げのヒールが履かれていたこと。その貴婦人のような甲高の黒い皮靴がなぜか鮮明に焼き付いている。母がよそいきに履いていたと思われる靴。逃げるにあたって母は一番いい靴をはいたのに違いない。若かった母のおしゃれ心はそんな生きるか死ぬかの時でも、いやだからこそ履いて逃げたのかもしれない。もうちゃんと履く日が来ないかもしれないという切羽詰まった突然の時の流れの中で、母はどんな思いで、私を連れて逃げたのか。今にして思えば危ない靴であるのに。小柄な母や叔母が私たち姉弟を背負って逃げたという、そのことだけでも大変なエネルギーを使ったと思われるのに、若き母はおしゃれにも気を使っていたなんて。

 今、世界のあちこちで戦争が行われている。一部の権力者によって正義の名のもとに、殺戮が繰り返されているのだ。そしてその犠牲となるのはいたいけな子供たち。あるいは女性。
 過日、某TVで爆撃で傷ついた少女のドキュメントが流されていた。髪の毛が生えないほどのやけどを頭と耳や顔に受けて、見るに堪えないほどの状態であったのを、NPO支援者の力を借りて、幾度かの苦しい手術に耐え、なんとか日常生活が送れるようになって帰国する、という内容であったが、傷が癒えたとはいえ、心に残った傷は生涯トラウマとなって彼女の心の中で、生き続けるかと考えると、今更ながらに戦争の罪悪を感ぜずにはいられなかった。

 彼女の惨禍に比べたら、私が体験したこと等は何ほどのことでもない。けれども、あの戦争で何百万かの一般の日本人が犠牲になったことは確かだ。であるのに、今、その戦争禍の従軍慰安婦がなかったかのように、あるいは日中事変等がなかったかのように言う一部の偉い方がいることは誠に残念と言わざるをえない。
 64年前、この国でも戦争があり、多くの犠牲を払ったことを、私たちは決して忘れてはいけないのだ。そして、私は少なくとも、その犠牲にならず、生かされたことに感謝せずにはいられない。それはほんの偶然に過ぎないと思うが、生かされた者への神様の何らかの啓示ではないだろうか。
 私は、あのように傷ついた少女が、子供たちが、女性が、これ以上増えないことを祈らずにはいられない。
 現在行われている戦争の事実の前には到底及ばない、私の戦争体験である。
 その後、母がその靴を履いているところを私は見ていない。 (2009.1.14)


NO1       誕生              

 1941年12月5日、太平洋戦争勃発寸前に、私は東京都の目黒で生まれた。父の名は菊男、27歳、紳士服仕立て職人。母の名はキミ、36歳。 彼らがどんなふうに知り合ったのかはついに聞かず終いであった。ただあのような、今から思うと不安定な時代に知り合ったのだから、刹那的な思いがなかったとは言えまい。身近な者同士で慰めあったのかもしれない。その年齢の開きは、特に母がかなりの年上であったことを思うと、尋常ではなかった気がする。

 父にとっては初めての子供であった私はことのほか可愛がられた。よく胡坐をかいた父の足の中に抱かれていた私は、父の髭のざらざらとした感触を今でも思い出す。あの頃はたぶん戦後のどさくさの時代であったはずだが、我が家は結構バブルで、父母は銭湯の帰りに盛り場で、飲めない酒を飲んできていた。母も一緒だったから、結構仲が良かったに違いない。小学生のころに、私も連れて行ってもらって、綺麗なお姉さんにジュースをもらったりしたことを覚えている。後に分かったことだが、五反田の料亭などが並ぶ色町でであった。

 食料のない時代であったが、福島県で百姓をしていた父は裏の空き地を利用して、麦やサツマイモを作っていた。おかげで私はサツマイモが大好きで、いも娘と言われたほど。今のサツマイモのようにおいしくはなかったが、お腹一杯食べられたことは幸せだった。父は仕立ての腕がよく、官庁役人の洋服を仕立てていたので、結構よい思いもした。特に警視庁の高官とは懇意にしていて、私も子供の頃、集金などで一緒に行くと、帰りには必ず新宿の二幸へより、なぜかクリームソーダやスイカ、パフェ等を御馳走になっていた。その高官が口をきいていてくれたらしい。とても楽しく、嬉しかった思い出である。
 
 母は栃木県出身で当時女性はあまり行けなかった女学校を出ていた。父親が死んで腹違いの兄弟たちのために、上京して働き、仕送りをしていたらしい。義理の母親とは11歳しか違わず、継母いじめをされていたという。お弁当のおかずが違っていたとか、父親が買ってきた反物を取りあったとか、母から聞いている。そんなシンデレラみたいな話があるのかと、私はびっくりした記憶がある。それでも律儀に恩を感じて仕送りをしていたのだから、明治生まれの女性は気構えが違うということか。その母は8歳の息子を連れての再婚であった。最初の結婚がどんなものであったか、そして何故別れたのか、母は話すことはなかった。ただ一度、私が小学生だった頃、品のいい老女が母を訪ねて来ていたことを覚えている。最初の結婚相手の母親だったらしい。孫の顔を見に来たということであったが、それもはっきり聞いたわけではない。私たち姉弟3人とは性が違っていた兄を不思議に思い、後になんとなく解ったことであった。

 昨年(2008.12)、山田洋次監督の映画「母べえ」を見た。私が生まれる1年前(昭和15年)から戦後の話なので、物語主演の吉永小百合の母親とダブって、私は母のことを考えながら見ていた。映画のように上品な暮らしの母らしい母ではなかったけれど、あの頃、皆がそうであったように、真面目につつましく生きていたであろう母は、どんな思いで、私を産み、その床の中で私を見ていたのだろうか。真珠湾攻撃を床の中で聞いたに違いないのだから。

 何一つ報われることのない時代に、自分を殺して生きた、吉永小百合演じるヒロインにはとめどなく涙が流れた。そして今、私は幼かった頃そのままの母を感じる。何一つ自分の過去を語ることもなく、50歳で父と離婚し、借家住まいのまま死んでいった母に、言葉にならない惜別の思いがあふれる。

 入院中の母は私が駆けつける間もなく息を引き取った。私の名前を呼びながら。そのことを思うと、私は今でも、とめどなく涙が流れるのだ。忘れそうなぐらい遠くなった過去でありながら、記憶の中の母は私が慕った若き日の母親なのだ。この胸のせつなさは永遠に続くのだろうか。

 桜の花が咲く頃、記憶の中の母の誕生日が来る。    (2009.1.6)


 

 

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時のかけら

自伝的随筆    始 2009.1